出浦の備忘録 part2~東西の芸術観の違い~ | 東進ハイスクール青葉台校|神奈川県

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2015年 9月 11日 出浦の備忘録 part2~東西の芸術観の違い~

おはようございます、こんにちは、こんばんは、どうも出浦です。

このブログもいつ更新されるかはわからないので、公開されたときの季節がどうなっているのかはわからないですが、僕の時系列では今残暑、最後の力を振り絞っております。

どうやら最も暑い時期は知らぬ間に通過していたようなのですが、いやはやそれにしても暑い。未だエアコンの庇護下でしか生きていけない体です。笑

そう、夏といえば甲子園ですよね。もう公開される頃には優勝校も決まっているのでしょうが、今はまだ高校球児たちが己が青春を燃やし尽くさんと全力を出している時期です。

よく意外と言われますが、こんな僕でも小1~中3まで野球少年で日々白球を追いかけておりました。(今ではもうそんな体力残っちゃいないのですが。笑)

ですから野球となるとどうしても懐かしき少年時代を思い出してしまうのです。

その最中にいる時は自身の心を扱うのに精一杯で、この一瞬が大切だなんて思うことすらしないもので、いつだって気付くのはそれが通り過ぎてからです。

ですから、まさにその自己の輪郭をガンガン揺さぶってくる嵐のど真ん中にいる皆さんには、どうか後悔することのない今日を送ってほしいと思うのです。

 

なんてまだ、20年しか生きてもいない若造が何を言うか、といった感じなのですが、

甲子園に出ている子たちが皆年下になってしまったという事実に気づいた以上、時の流れの無情さを感じずにはいられないのです。

 

さて、こんなちょっとくさいお話をしたところで、今回の本題に移りたいと思います。

前回に引き続き、出浦の備忘録part2ということで、今回はタイトルにもあるように、東洋(主に日本です)と西洋との芸術観の違い、なんていうちょっと小難しそうなお話をしたいと思います。

 

芸術という言葉を辞書で引くと、こんなことが書いてあります。

げい‐じゅつ【芸術】
特定の材料・様式などによって美を追求・表現しようとする人間の活動。および、その所産。絵画・彫刻・建築などの空間芸術、音楽・文学などの時間芸術、演劇・映画・舞踊・オペラなどの総合芸術など。 
(出典:デジタル大辞泉 https://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/66566/m0u/)

 

なにやら難しいですね。僕自身美術の授業はいつも2~3しかとれなかったので、芸術的センスは皆無だと思います。

では、そんな僕が何をお話するのかと言いますと、東西にわかれる芸術観の差について迫ってみたいと思います。

 

そもそも、「芸術」という言葉は日本にありませんでした。明治時代に英語の「art」の訳語として芸術は生まれたのです。

言葉がなかった、ということが大切です。言葉がないということは、それを表現する必要がない、ということになります。

だって、言葉にする必要のないものなら言葉はなくていいですよね。

わかりやすい例で言えば、「成金」なんていう言葉は江戸時代あたりから使われるようになります。(普及するようになるのは、20世紀になってから株で儲かる人が増えたことによりのですが。)

今では必要なかったけど、急に金持ちになった人たちが増えたことで、それを表現する言葉が生まれた、ということですね。

 

つまり、かつての日本には「芸術観」といった形の概念は持ち合わせていなかった、ということになります。

だとするなら、日本の芸術観はなかった、ということになるのか。いやそうではありません。

ちゃんと事実として当時の日本人にも美的観念はあったのです。ただそれを表現してなかっただけで。

その理解をした上で、二者間の比較をしていきましょう。

 

さて、それではまず先に西洋の芸術観を整理しておきましょう。

西洋の芸術観とは、みなさんが思い浮かべるようないわゆる芸術、みたいなもので間違いないと思います。

あちらでは、個性が重視され、独自性、独創的なんて言葉からも想像がつくように、鋭く尖った個という印象があります。

その人にしか描けない世界、その人にしか見えない景色、その人にしか表せない表情、といったようにです。

見るものを引き込む魅力的すぎるその固有の世界の提示、それが西洋の芸術なのではないかと思います。(まぁ僕自身完全に理解しているわけではないので、これが真理とは間違っても言えないのですが。)

人と同じことをしても評価はされない。その人にしかできないことをするから評価される。そんな世界だと思います。

 

では、日本の芸術観(ここでは便宜上そう呼ばせていただきます)とは、一体どういったものなのか。

まずみなさんが思い浮かべるものとして、職人さん、といった方々を想像するのではないのでしょうか。

彼らの仕事は超一流であり、卓越した技術力によって、常人の想像を遥かに上回っていきます。

その対象はあらゆるものに及び、日常的に使うものから、寺社に代表されるような非日常のものまで実に様々です。

ただ、これらには共通点があります。

それは、没個性的であること。

日本における芸術とは、没個性であり、繰り返されることであり、生活の中に自然に溶け込んでいるものです。

技術は代々受け継がれ、伝統として繰り返され、自身の成すべきはその繋がれていく中にわずかに変化をもたらすことです。

決まった型にこそ、美しさがあり、個人の感覚でそれを壊すことを非常に嫌います。

今にも残り、日本が誇るべき――いわゆる芸術として――歌舞伎があります。これらを想像していただければ僕の言いたいこともわかってもらえるかと思います。

日本が大切にする型の意識は「道」(茶道、武道、の道です。)の中に息づいています。

そしてもう一つ特徴として挙げられるもの、それは「当の本人たちがそれらに対して西洋と比べて圧倒的に関心がない」というところです。

代表例としては、浮世絵が骨董品の包装紙として利用されている、なんてものがあります。(浮世絵が評価されたのは、これが海外に渡り、その美しさに焦点が当てられたからです。)

どうしてかって、それは日本文化の中にありふれすぎているからなんだと思います。

西洋のものとは異なり、柔らかく、すっと溶け込んでいるもの、それが日本の芸術です。

 

渡辺京二さんの『逝きし世の面影』という本の中にこういう表現が登場します。

「この国においては、ヨーロッパのいかなる国よりも、芸術の享受趣味が下層階級にまで行きわたっているのだ。〈中略〉ヨーロッパ人にとっては、芸術は金に余裕のある裕福な人々の特権にすぎない。ところが日本では、芸術は万人の所有物なのだ。」(アーノルド)

「この国の魅力は下層階級の市井の生活にある。〈中略〉日常生活の隅々までありふれた品物を美しく飾る技術にある。」(チェンバレン)

「仲間たちと快く生活するための社会的芸術」(ローエル)

この本は、江戸末期から明治初期に来日した外国人識者の目から、当時の日本人にとってはあたりまえすぎて記録にならなかった庶民の生活の息づかいを描いています。

上記に抜粋した彼らの指摘は初めて読んだ時、まさに目からうろこといった心境でした。

今の時代には失われつつあるこの、日本という国がもつ芸術観。

日本の民衆の中に広く深く浸透していたもの、我々にとって大切な財産であり、日本人が積み上げてきた歴史なのだと、思います。

 

今回は、少し難しいテーマになってしまいましたが、今の僕たちが考えるべき大切なことだと思っています。

前回は言語学を取り上げましたが、本来の僕の専攻はこの民俗学という分野です。

僕が書く記事はそれこそ自己満足のもののようになっているのかもしれませんが、読んでくれた皆さんが少しでも僕のテーマに興味を持ってくれたり、こういったことについて考えてくれる。

それだけでとても嬉しいです。

大学で学べる時間には限りがあります。今君たちが必死になって勉強しているのは、今よりもっと多くのことを考える力を養うため、大学でより深くとある事象について研究するためです。

先輩として、僕にできることがあればいくらでも力になりますので、いつでも相談してくださいね。

 

それでは、また次回お会い致しましょう。

 

さようなら。

 

 

 

出浦

 

 

 

参考文献:『逝きし世の面影』 渡辺京二著 平凡社ライブラリー 二〇〇五年九月 の中より一部抜粋

 

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